〜 民族楽器バンドゥーラが紡ぐ、祖国への思い 〜
バンドゥーラ奏者・ボーカリスト カテリーナさん
祖国ウクライナへの愛と豊かな文化を、弦の調べにのせて描き伝えるバンドゥーラ奏者のカテリーナさん。日本との縁と絆、これから創られゆく音楽の行方について、今回は後編のお話です。
●日常という名の危うい平和
カテリーナ:2014年、クリミア危機の際にロシア大使館前でのデモに参加中、メディア関係者から通訳を頼まれたことから、半ば強制的にニュースの翻訳業務に携わることになりました。自分の活動のプロモーションを兼ねられるとの期待もありましたが、今回の戦争開始前の2ヵ月間は、ほぼ自宅に帰れない状態でした。
しかし、ウクライナに住む母を日本に呼び寄せることができたのは、通訳業の関係で情報がいち早く入手できたおかげだと思います。
ロズリン:厳しい状況下での、非常に大きな決断でしたね。それまでの生活の全てを置いて逃げることになりますから、ご家族のご心痛、ご苦労を思うと胸が痛みます。
カテリーナ:母は「何も持たずに強制避難」という異常事態を38年前に一度経験していますが、再び住み慣れた家を手放して退去させられるなど、普通なら考えられないことです。
ところが、実際に実家から徒歩10分のマンションにミサイルが落ちて、母も決心がついたようでした。
ちなみに羽田では、母が乗った飛行機の到着をマスコミが総出で待ち構えていました。その光景はある意味、これまでの活動の成果かも知れないと、皮肉ですが思いましたね。
ロズリン:お母様は、日本での暮らしにすぐ慣れましたか。
カテリーナ:私と同居した最初の1年間は、文化の違いや言葉の壁もあったし、私たちとの生活習慣や時間帯が合わず、とうとう「帰る」と言い出しました。でも現状から言ってそれは無理。「だったら一人暮らししたい」となりました。
母はもう70歳で、入管で就労はしない旨を申請したので、今は某財団の避難民サポート制度で生活しています。別々に暮らしたほうがお互いに気楽ですし、最近では友人もできて、自分なりにコミュニティに慣れて自由に暮らしているようです。
●ミッションとは覚悟なり
カテリーナ:ふり返ると、チェルノブイリの原発事故が無かったら私は日本に来ていないし、福島原発事故で避難した子どもたちとの縁も無かったんですよね。2つの原発事故、そして祖国での戦争が無かったらどうなっていただろう? と考えるときがあります。
原発のおかげ、というのは違うし、そう言いたくはない、そこは複雑な思いでいっぱいです。
とは言え、「何かの・誰かのおかげ」ではなく、何か使命として伝えるべきことが自分には絶対にある、とは確信しています。とても難しいことですが。
ロズリン:私などは何もできず、無力感にさいなまれてテレビ報道すら見られない時期もありました。もちろん企業として寄付もしましたが、行政側の申請ルールが非常に複雑で思うようにいかず、もどかしい限りです。
カテリーナ:そうなんですよね。また、支援が本当に必要としている人に渡っているか確かめようがないのも問題です。そこで、然るべきところに支援が確実に届くよう仲介するNPOの立ち上げ準備を始めました。当然、危険を伴うものでもあるので、情報入手やさまざまな調整が不可欠です。
ロズリン:このところはご多忙すぎて、コンサートをする暇がなさそうにも見えます。
カテリーナ:戦争が始まった直後は歌など歌う気持ちが失せてしまい、音楽活動は休止して、通訳として情報伝達を担うほうが重要かと考えました。しかし、「こんな時こそあなたの歌が必要だ、やめないで」というメッセージをもらいまして……通訳なら他にもできる人はいるけれど、バンドゥーラの演奏が出来るのは自分しかいない、と思い直し、今は音楽一本です。
ロズリン:他にも、歌や楽器のできる友人や知人のネットワークは?
カテリーナ:避難者の中にも少しはいますが、言葉の問題もあるし、すぐに活動につなげるのは難しいのが現状です。そこで昨年、自主的な活動がしやすいよう、株式会社カテリーナ・ミュージックを設立しました。音楽活動を望む仲間と一緒にプロモーションやプロデュースを行い、すそ野を広げていきたいと思っています。
●磨くべき才能を育むために
ロズリン:将来のヴィジョンとしては、やはりウクライナ支援がメイン?
カテリーナ:それももちろんありますが、私としては多くの人に音楽を届けるのが夢なので、ピアノ、バンドゥーラ、歌をメインにした音楽学校を創りたいと考えています。才能のある子が経済的な理由でその道を諦めずにすむようなサポートを目指します。音楽家の育成は、ゆくゆくはウクライナ支援にもつながりますし。
ロズリン:それは素晴らしい! 実現するといいですね。
カテリーナ:はい、今は先行投資として、コツコツと楽器を購入しています。昨今、バンドゥーラは作り手や製造工場が減る一方で、今後入手が難しくなりそうなのです。だから見つけたら即購入! みたいな感じですね。
ロズリン:ところで、バンドゥーラという楽器を初めて見ましたが、とても大きいんですね。重さもずいぶんありそうです。
カテリーナ:バンドゥーラはウクライナだけに伝わる民族楽器で、約60本の弦から成っており、指先で弾いて演奏します。音色はギターやハープに似ていますが、構造的に最も近いのはピアノです。そして、どの弦も押さえずに弾くのが、他の弦楽器の奏法と異なる特徴です。
重さは8kgほどあるので、減量したい方には良い運動になりますよ(笑)。
ロズリン:バンドゥーラを本格的に学ぶには、専門の学校があるのですか。
カテリーナ:私が習い始めたのは7歳のときですが、本格的には15〜19歳の4年間は音楽専門学校で、1日8時間以上をバンドゥーラの練習に費やしました。暗譜での演奏課題では、真っ暗な部屋で、覚えたメロディと指の感覚だけを頼りに練習したこともあります。
●食の文化に国境は無し
ロズリン:最近出されたご著書について、お伺いします。
カテリーナ:『カテリーナの伝えたい5つのこと』(ナイデル)は、2023年5月に上梓しました。主にコンサート会場で販売していますが、広い世代に向けて読みやすく工夫した内容になっています。
同じく9月に発売した『ウクライナ女性の美しく前向きな生き方』(徳間書店)では、ウクライナ料理のオリジナルレシピも紹介しています。
ロズリン:まあ、お料理も得意でいるとは。
カテリーナ:2022年8月から2023年1月まで、日刊ゲンダイに連載した料理の記事がきっかけで、本になりました。そのうち、ウクライナ料理のレストランをプロデュースするチャンスがあったらうれしいです。
ロズリン:楽しみがたくさんあって、また忙しくなりますね。今後のご活躍を楽しみにしています。
〈ロズリン インタビューを終えて〉
お話の後、バンドゥーラ演奏と歌をご披露くださったカテリーナさん。その艶やかな歌声は、まさに豊かな歴史と文化を持つウクライナの魂そのものを描き出す絵画のよう。どこか懐かしい優しさでいっぱいのひとときに、すっかり日常を忘れて引き込まれてしまいました。
どんな時でも誇りを失わず、前を向いてしなやかに生きる彼女の前途は、きっとまぶしい陽光に満ちあふれている……不安と緊張が隣り合わせにある今、そう願わずにはいられません。
バンドゥーラ演奏の様子
【カテリーナさんプロフィール】
ウクライナの伝統楽器バンドゥーラ奏者・歌手 Kateryna(カテリーナ・ミュージック)
6歳の時にチェルノブイリ原発で被災した子供たちで構成された音楽団「チェルボナカリーナ」に入団後、海外公演に多数参加。
コンサートで来日したときに日本の素晴らしさに感動し、19歳の時に音楽活動の拠点を東京に移す。
現在、日本に数少ないウクライナのバンドゥーラ奏者の1人として、ウクライナ民謡や日本歌曲を演奏し、テレビ、新聞、ラジオなど数多くのメディアに取り上げられている。
2023年からウクライナのために全国各地を周りチャリティーコンサート、支援活動中。
年間の出演コンサート数は300本を超える。
祖国のウクライナと日本の架け橋となり、平和の調べを届け続けている。
(株)カテリーナ・ミュージック公式サイト https://www.kateryna-music.co.jp
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〜 民族楽器バンドゥーラが紡ぐ、祖国への思い 〜
バンドゥーラ奏者・ボーカリスト カテリーナさん
ウクライナの伝統音楽の素晴らしさを伝えるため、日本に根を下ろしたカテリーナさん。幾多の試練を乗り越えてきた彼女のかたわらにはいつも、民族楽器バンドゥーラがありました。弦の音色にのせて伸びやかに響く歌声は、希望に満ちた祖国の未来の景色を描き出すかのようです。
●人々を救う音楽の真価
ロズリン:日本での暮らしを始められて、どのくらいになりますか。来日のきっかけなども、ぜひ伺いたいところです。
カテリーナ:日本に活動拠点を移してからは、18年になります。
私が生まれたのは、ウクライナのチェルノブイリから2.5?離れたプリピャチというところです。生後1ヵ月の1986年4月にあの原発事故が起きて、私たち一家はキーウに緊急避難を余儀なくされました。
避難先の小学校では、私を含めた避難民の子どもたちがたくさんいたわけですが、事故のことでずいぶんいじめに遭いました。「一緒に遊ぶと放射能が伝染する」「あの子たちは夜中に光ってる」等々、いわれのない差別を受けたものです。
ロズリン:子どもたちにとって、苛酷な試練が続いたのですね。
カテリーナ:そんな日常を少しでも明るくしようと、ある音楽の先生の発案で、被災避難民の中から音楽に興味と素質のある子どもを選抜した音楽団「チェルボナカリーナ」が結成されたのです。
ロズリン:素晴らしいアイデアですね。あなたもそこに?
カテリーナ:小学校に上がった6歳で加わりました。学校の授業が終わって午後3時から夜9時まで毎日6時間、週6日を音楽学校で過ごしました。おかげで遊ぶ時間はありませんでしたが、同じ境遇の子ども同士で悩みを打ち明け合ったりしたものです。
7歳のとき、ドイツからの招きで楽団は初めて海外コンサートを行いました。大勢の人の前で歌や踊りを披露するのは生まれて初めてで緊張しましたが、とても楽しい経験でした。自国の文化を外国で披露する喜び、誇りというものを、このとき知ったのだと思います。
その後もスイス、スペイン、カナリア諸島等々を公演し、その際の募金は原発事故による病気の子どもへの支援に充てられました。
●日本の地で一歩を踏み出す
ロズリン:日本にも公演で訪れたことがありますか?
カテリーナ:最初の日本公演は10歳のときの1996年で、このときはメンバー約20名で全国各地を回りました。主目的がチャリティーなのでノーギャラですが、滞在中は観光などのお楽しみもありました。日本はいろんな意味ですごく遠い国、というのが良かったのかも知れませんが、日本の人たちはみな優しくて親切で、すっかり好きになりました。
ロズリン:世界中を回ってみての収穫には、どんなものがあったでしょうか。
カテリーナ:人は言葉が分からなくても、同じ場面で泣いたり笑ったりできるものです。だから、祖国の文化をアピールする活動なら、私の好きな日本でもできるのではないか、と考えるようになっていきました。将来ソロで音楽活動をするにも、また自分の子どもを育てるにも、より安心で安全な場所を選びたい、その思いが募っていったのです。
ロズリン:そしていよいよ、日本を活動拠点に定めたのですね。
カテリーナ:19歳の2006年、学生ビザで来日して日本語学校に入りました。2年間、朝から午後まで勉強漬けでがんばったので、読み書きは出来るようになりましたよ。
日本では部屋を借りての一人暮らしでした。何せ切り詰めた生活ですから、「勤めるなら賄いが出るところがいい」とのアドバイスに従い、毎日のように賄いのお世話になっていました。
ロズリン:日本語学校を卒業してからはどんなことを?
カテリーナ:音大に行きたかったのですが、現在の夫に出会ってすぐ結婚して、やがて長男が生まれ……その間も、少しずつ音楽活動ができる場所と機会を自分で探していました。一人の人間として、好きなことを仕事にしたいとの思いは変わらなかったので、妊娠8ヶ月まではステージに立ちましたよ。
●手探りの先で掴んだ光
ロズリン:プロモーション活動などのマネジメント業務も、全てお一人で?
カテリーナ:はい、お腹が目立ち始めた頃でも、子ども時代からお世話になっている知人とコンタクトをとり、小さなイベント情報などを提供してもらうことからスタートしました。
さらに、音楽事務所やレコード会社など100社くらいに宣材資料を送りましたが、反応があったのは1社のみ。しかもお腹もだいぶ大きくなって、「仕事と育児、どう折り合いつけるの?」と厳しいことを言われました。こちらとしては、妊娠や出産がそこまでネガティブに扱われることに納得がいかず、その会社との関係は白紙にしました。
ロズリン:今も多くの女性がぶつかる壁です。
カテリーナ:ですが一方で、自分のやり方は間違っているのだろうか、と自信がなくなってきたんですよね。日本で私の音楽はそんなにニーズがないのか、と落ち込んでいると、夫が「あなたの音楽や文化は、ここ日本では珍しすぎるからじゃないか?」とひと言。そこで、プロモーション戦略の見直しにとりかかりました。
ロズリン:ご主人の意見が大きなヒントだったようですね。
カテリーナ:演奏ができるライブハウスや、出演者を募集している場所の情報を収集するほか、ノーギャラでもPRになるところならどこでも行くつもりで、FMラジオ番組に出たり、地方にも出向いて、自分の音楽を知ってもらう活動を地道に続けました。
でも、18年前の主流はほぼジャズやロック、ポップス限定だったので、民族音楽OKなライブハウスは少なくて苦労したものです。
ロズリン:時代を経るにつれ、周囲の状況も変わっていったでしょう。
カテリーナ:その後、SNSで「ジャズ喫茶だけど、バンドゥーラの演奏もある」といった発信で、少しずつ認知が広まり始めました。「のどじまんTHEワールド!」(日テレ)という番組で3位になったこともきっかけになったようで、徐々にマスコミからオファーが来るようになりました。
●葛藤との対峙で見えてくるもの
ロズリン:昨今は、ご多忙を極めていますね。
カテリーナ:おかげ様でここ2年では年300公演ほどをこなしています。ウクライナという国が今よりマイナーだった頃は、まず地図上のどこにあるのかという説明から始めてたんですが。
チェルノブイリという地名は有名ですが良いイメージがないので、当初は一切出さないつもりでした。しかし3.11東日本大震災を境きっかけに、原発の話題が語りやすい空気になりましたよね。
ロズリン:国民みんなが、我が事として捉えざるを得ない出来事でしたから。
カテリーナ:支援コンサートなどのチャリティーイベントも増えて、福島県から避難してきた子どもたちのサポートなど、音楽を通して交流の機会ができたのはうれしいことです。
ただ私の場合、経歴を語ろうとするとどうしても原発と切り離せない面があるんです。しかし、まさか今度は戦争が起きるとは……
ロズリン:世界中が驚き、混乱し、心を痛めました。
カテリーナ:祖国のために何かしないではいられないと思ったとき、方々から声がかかり、結果としてステージのほか、メディア取材も多くこなすなど、流れが大きく変わっていきました。
後編へ続きます。
【カテリーナさんプロフィール】
ウクライナの伝統楽器バンドゥーラ奏者・歌手 Kateryna(カテリーナ・ミュージック)
6歳の時にチェルノブイリ原発で被災した子供たちで構成された音楽団「チェルボナカリーナ」に入団後、海外公演に多数参加。
コンサートで来日したときに日本の素晴らしさに感動し、19歳の時に音楽活動の拠点を東京に移す。
現在、日本に数少ないウクライナのバンドゥーラ奏者の1人として、ウクライナ民謡や日本歌曲を演奏し、テレビ、新聞、ラジオなど数多くのメディアに取り上げられている。
2023年からウクライナのために全国各地を周りチャリティーコンサート、支援活動中。
年間の出演コンサート数は300本を超える。
祖国のウクライナと日本の架け橋となり、平和の調べを届け続けている。
(株)カテリーナ・ミュージック公式サイト https://www.kateryna-music.co.jp
]]>〜理想を求めてひた走る蔵元のプライド〜
(株)南部美人 代表取締役社長/五代目蔵元 久慈浩介さん
岩手県の地酒「南部美人」の五代目蔵元を務める久慈浩介さん。日本酒の文化を世界に発信する活動は、日本酒へのあふれる愛とパワフルな情熱に満ちています。後編の今回は、もう一つのテーマでもある海外展開について、さらに詳しく伺いました。
●昭和から引き継ぐ、南部ブランドの魂
ロズリン:海外へのアプローチにも、積極的に取り組んでおられますね。
久慈:創業当初は二戸だけで飲まれる酒だった「南部美人」は、祖父が盛岡市に持ち込んだことで、岩手の地酒として広く知られることになりました。
その後、父が東京の銀座三越に売り込み、そこから全国展開へとつながっていき、自分の代になってからの1997年、海外進出を視野に入れて日本酒輸出協会を立ち上げました。
日本酒って、それまでは世界ではまだ全然知られていませんでしたからね。だから、売るためにはまず啓蒙普及から始める必要があったんですが、日本酒の魅力を伝えることができるのは蔵元以外にいないので、自ら立ち上がったというわけです。
ロズリン:賛同してくれる同業他社は、すぐ集まりましたか。
久慈:大丈夫、酒造業界は横のつながりが強いんです。昔はたくさんあった蔵元も、今では1,000もないくらいに縮小してしまったので、皆で結託して闘わないと生き残れないんですよ。
むしろ我々にとって目下の敵は、“無関心”です。無関心と闘うには、横でつながって仲間を増やしていく活動が不可欠なので、SNSでの情報交換も欠かせません。
ロズリン:企業秘密を守りたい歯みがき業界とは、そこがずいぶん違いますね(笑)。
久慈:酒造の世界には、「酒屋万流」という言葉があります。同じやり方で作っても、絶対に同じものは出来ない、酒とはそういうものです。何より、我々はそれぞれが違うもの、独自の酒を創りたいと考えていますからね。
●ニューヨーカーを虜にしたSAKEパワー
ロズリン:日本酒の海外初上陸は、どこの国から?
久慈:発足当時、活動の理念と目的は明確でも、「何をどうやるか」が定まっていない状態でした。
するとあるとき、日米の文化交流団体ジャパン・ソサエティーが、協会のニュースを見て連絡をくれたんです。「今、ニューヨーカーが日本酒に興味を持ち始めているので、ぜひ来てくれ」と。
ロズリン:さすが、ニューヨーカーは目新しいものに敏感ですね。
久慈:当時の海外では「“SAKE”?何だそりゃ?」という認識しかなく、まともに説明できる人材を探していたようで、すぐにサンプルを持ってNYに来てほしいと言われました。
この広報プロジェクトでラッキーだったのは、今では日本酒ジャーナリストとして有名なジョン・ゴントナー氏がメンバーに加わっていたことです。彼のネイティブ英語での講演は大好評で、これで一気に日本酒への関心が高まり、大きな注目が集まりました。
まず「これは何だ?」に始まり、フルーティーな香りに驚いて「果物が原料か?」と。
違うと答えると「何でこんな味になるんだ?」「オーマイガー!!」
その次は「How much?」となるんですが、これはサンプル品なので販売はできないと言うと「オー、ノォ〜〜〜!!」
これなら絶対にいける、海外進出は成功すると確信した、これが24歳のときの出来事です。
●それぞれが創り上げる唯一無二の酒
ロズリン:昨今の日本酒の人気ぶりは、貿易統計からも分かります。ヨーロッパなど海外のコンペでも日本酒の部門がありますね。
久慈:たとえば、有名なワインコンテストのインターナショナル・ワイン・チャレンジ*(IWC)では、日本酒部門が2007年に正式に設けられました。
これはワイン界の著名なスペシャリストであるサム・ハロップ氏に我々が働きかけた功績とも言えます。日本に招いて蔵に案内したりして、日本酒のファンになってもらえたのが良かった。
ロズリン:見えない努力が実りました。
久慈:そうでなければ、今の市場はなかったでしょう。
ロズリン:今、海外でも日本酒は作られているのですか。
久慈:もちろん、作っていますよ。地理的に稲作ができない国は米を輸入して、杜氏が現地に出向いて技術指導しています。
ロズリン:海外にノウハウをすっかり教えても大丈夫?
久慈:先ほども触れた「酒屋万流」の通り、酒造りでは絶対に同じものにはなりません。ワインにも同じことが言えますよね。決まったゴールを目指してたどり着くものではなく、段階を踏みつつ、その過程でそれぞれ育っていくのが日本酒の良さですから。
但し、輸入した日本産の日本酒は価格が高いんですよ。我々としては富裕層だけでなく中間層にもユーザーを広げたいので、気軽に飲める現地生産の美味しい日本酒の提供を目指しています。
ロズリン:これでますます、世界中に日本酒ファンが増えますね。
●地球を制覇? 瞬間冷凍のスゴ技
ロズリン:他にも、これからの夢は?お聞かせください。
久慈:今や日本酒は地球上で人が暮らす五大陸すべてに行き渡っていますが、唯一、未開拓な場所があるんです。分かりますか?
ロズリン:さて、五大陸以外と言うと……
久慈:南極大陸です。日本酒やビールなどは凍るので、持ち込めるのはウイスキーやウォッカ、焼酎などアルコール度数の高い酒に限られてしまうんです。
しかし、当社オリジナルのスーパーフローズン技術で瞬間冷凍した日本酒なら、味を損なわない状態で南極大陸にも持ち込めるんですよ。「最初から凍った日本酒ならいいじゃん!」ということです。
南極に近づいたら保管は簡単だし、室内では冷やでもお燗でもいけますから。
ロズリン:なるほど、それは素晴らしい技術ですね。
久慈:昭和基地内にはバーがあって、自分は3ヵ月間そこに立って日本酒を提供したいと思っているので、観測隊とも連絡を取り合っています。現実的には3ヵ月も留守にするのは難しいかな……と迷ってたら、周りからは「別にいいんじゃない」みたいに言われたりもしてますが。
ロズリン:早く実現するといいですね。
久慈:お酒は本来、人を楽しませるものであるべきです。だから、遥か南極の地で、熱燗にさきイカでも添えて「ひとり酒ぇ〜♪」なんてやりたいなあ、って思うんですよ。
〈ロズリン インタビューを終えて〉
日本酒愛にあふれる楽しいお話で、インタビューの時間があっという間に過ぎてしまいました。豪快でパワフルな久慈さんですが、日本酒造りという奥深く繊細な仕事に真っ向から向き合い、その心を伝えようと邁進する姿に、蔵元としてのプロ意識を感じます。またいつか、その後のお話を伺う機会ができますように!
【久慈 浩介(くじ・こうすけ)さんプロフィール】
株式会社南部美人 代表取締役社長/五代目蔵元
東京農業大学醸造学科卒。岩手の地酒「南部美人」およびリキュールの製造・販売を手がける。
東京農業大学客員教授、日本吟醸酒協会理事長、岩手県酒造組合副会長、一般社団法人awa酒協会副会長などを務める。メディア戦略を通じ、日本酒の魅力と文化的価値を世界に向け積極的に発信。
「南部美人」公式サイト https://www.nanbubijin.co.jp/
*インターナショナル・ワイン・チャレンジ(International Wine Challenge)
英ロンドンで年1回開催される国際ワイン品評会。2007年から設けられた日本酒部門(Sake Category)では9カテゴリーについてブラインドテイスティングによる審査が行われる。同部門最高賞の称号は「チャンピオン・サケ」。2023年は1,601銘柄が出品、うち32点がゴールドメダルの中から特に優れた酒としての「トロフィー」を獲得した。
https://www.internationalwinechallenge.com/about-the-sake-competition.html
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〜理想を求めてひた走る蔵元のプライド〜
(株)南部美人 代表取締役社長/五代目蔵元 久慈浩介さん
岩手県の地酒として名高い「南部美人」の醸造元で五代目蔵元を務める久慈浩介さんは、ブランドのたゆみない改革に心血を注ぐ傍ら、日本酒の魅力を海外に紹介する活動にも精力的に取り組んでいます。
伝統を引き継ぐリーダーの使命感とともに、次世代にふさわしい理想の酒造りを模索する日々の先に広がるのは、まさに地球規模のビッグヴィジョンでした。
●新時代の酒に宿るストーリー
ロズリン:久慈さんとは、ソムリエの友人が代表を務める「日本のSAKEとWINEを愛する女性の会」が開催したパーティーで初めてお会いしたんですが、面白い方をご紹介いただけて、嬉しく思っています。
久慈:ありがとうございます。今日はこの法被、「南部美人」のユニフォームで、よろしくお願いいたします。
ロズリン:ご実家で代々、お酒づくりをなさっていますね。
久慈:はい。久慈家は1902年から代々酒造りを続けて121年、僕は蔵元の五代目になります。
初代は曽祖父で、一戸(いちのへ)の醬油屋の九男坊?だったかな。とにかく末っ子だから家を継ぐことはせず、二戸(にのへ)に移って、借地借家に借金して酒造りを始めたんです。
ところがまあ、酒飲みだったんで早死にしちゃって、息子もまだ幼かったので、奥さんが二代目として事業を引き継ぎました。
そして三代目が僕の祖父、四代目が父、2013年から五代目の僕へとつながります。
ロズリン:女性が事業、特に酒蔵に関わるのは珍しいことだったのでは。
久慈:はい、当時はご承知のように酒蔵は女人禁制で、蔵には入れませんでした。実際の酒造りの現場は、杜氏や蔵子さんなど専門の職人が作業するので、いわゆるオーナーですよね。とにかくやらざるを得ない状況だったので。
ロズリン:古い時代には、相当なご苦労だったと察します。
久慈:戦争が始まると、祖父は徴兵されて戦艦大和の護衛艦に乗船しました。が、身体が弱くて戦地で病気になって艦を降ろされたおかげで、生きて帰ることができたという人です。
酒造りは戦中でも続けていましたが、もちろん米は無いのでリンゴなどの代替原料を使い、他にも味噌を作ったり、豚や鶏を飼うなどして、どうにかしのいだそうです。
ロズリン:戦時中は女性も勤労動員されたりして、厳しい時代でしたよね。
久慈:廃業する蔵元も多かったけれど、祖父は戦後、志新たに事業を立て直しました。
それ以前にメインだった銘柄「堀の友」に代わる、旧南部藩という土地の誇りを体現した“美しい酒”を、という発想で、新しいブランドの酒造りに取り組んだのです。
ロズリン:「南部美人」は、東北のお酒なのに南という字があって、ちょっと不思議な印象です。
久慈:これがよく混乱するんですよ〜。“南部”は、南部藩主の姓なので、英語のサザンじゃないよと説明するんですが、やっぱりどうしても分かりにくいんですね。かと言って、東北だからとノーザンにしちゃうとますます違うし。ここが難しいところです。
●留学先で言われたこと
ロズリン:久慈さんご自身は、小さいときから蔵を継ぐことを意識されていたんですか。
久慈:それは全く、もう全く思っていませんでしたね。だいたい、子ども時代から周りに人が多くて、プライバシーなんか皆無だし。彼女と道歩いてるだけで通報されるんだから(笑)。
最初は学校の先生になろうと思っていて、高校生のときアメリカのオクラホマに留学したんです。このときのホームステイ先のお父さんが大のワイン好きで、持って行った大吟醸酒を出したら、初めて味わう日本酒に驚いて、すごく喜んでくれまして。「お前、もちろん家業を継ぐんだろう?」「いやいや、まさか」そしたら「バカヤロー!」って𠮟られた。「お前しか継げる人間はいないのに、もったいない」とね。
そんなこと、誰からも言われたことがなかったんですよ。ホームステイ初日から最後の日まで、ずーっと言われ通しでした。
そのこともあって、東京農大の醸造学科に進みました。父も祖父も喜びましたね。
ロズリン:大学での勉強はどうでしたか。
久慈:それまでは、他に酒蔵の息子なんて周りに居なかったでしょ。風呂に酒を一升瓶ごとドバドバ入れるような家なんて、普通ないじゃないですか(笑)。
でも大学では、蔵元から来た同じ立場の学生が30人とかいる。気持ちが分かり合えて、話が通じる仲間が初めてできたもんだから、そりゃもう楽しかったですよー。
農大では教職課程もあるので教師になることもできたけれど、そんなことはもう考えもしませんでしたね。教授だった小泉武夫先生 の授業なんか本当に楽しくて、最高でした。
ロズリン:学校で学んだことは、現場でどのように役立っていると思いますか。
久慈:現場作業は杜氏に任せるんですが、酒造りは全体に複雑で難しいので、いろいろ勉強しないといけないんです。でも大学では先生方や蔵元同士のネットワークができましたし、醸造経営学でビジネス面のノウハウも学べて、本当に良かったと思います。
ロズリン:留学のご経験もあったから、英語は得意?
久慈:いやー、そんなには……酒の話ならいくらでもできるけど、日常会話はどうもね(笑)。
●幻の酒がもたらした人生の転機
久慈:あるときから、自分の酒を変えていきたい、と思いが強くなりました。きっかけは、山形の酒「十四代」との出会いです。
日本のロマネコンティ、とも評される幻の名酒で、東京で初めて飲んだときの衝撃ときたら! こんな酒、いったいどうやったら作れるのかと。
今のまま何もしないのではまずい、という忠告もあって、そこから技術者として酒の改革に本気で取り組み始めました。
ロズリン:ひと口にリニューアルと言っても、時間がかかりそうに思えます。
久慈:10年くらいかけて、味を変えていきました。この4〜5年で完成に近づきつつあるところまでは来れたかな。
酒造りで不変なのは、水。そこにプラスして、原料の米を改良することがカギです。昔は米って配給制で、規制のもとに割り当てられるものだったってご存知ですか。それ以外の米は“ヤミ米”扱い、そんなことが90年代に入ってからも続いていたんですよ。
2000年頃になってようやく食糧管理法が変わって、米の売買が自由化され、農家と提携した事業も可能になってから、まずは契約栽培で米の質を変えるところから改革に着手していきました。
ロズリン:人を雇う立場では、スタッフの管理や育成も大切ですよね。
久慈:その通りですが、重視したのはまず基本に戻ること。これまでの問題はいろんな“手抜き”が原因だったので、これを正していくことが急務でした。
一方、職人も高齢化して、身体があちこち痛いとか言って動いてくれないことが増えて、遠からず引退する流れにもなっていたんですね。そうした事情もありまして、今現役の若いメンバー12名は、僕が集めて育てた精鋭部隊というわけです。
ロズリン:今、自己採点するなら百点満点?
久慈:酒に百点というのはないですね。「もう、取れる賞は取り尽くしたのでは」と言われたからって、それは違う。一生、百点は取れません。
不変である水に対して、技術、原料の米、設備環境などを掛け合わせてできるのが日本酒です。もちろん、外部の人が高く評価してくれているので、いいものになったとは思っていますが、理想は高くなっていく一方だし、下げたくはない。常に、どこまで理想に迫れるかという真剣勝負なんです。
後編へ続きます。
【久慈 浩介(くじ・こうすけ)さんプロフィール】
株式会社南部美人 代表取締役社長/五代目蔵元
東京農業大学醸造学科卒。岩手の地酒「南部美人」およびリキュールの製造・販売を手がける。
東京農業大学客員教授、日本吟醸酒協会理事長、岩手県酒造組合副会長、一般社団法人awa酒協会副会長などを務める。メディア戦略を通じ、日本酒の魅力と文化的価値を世界に向け積極的に発信。
「南部美人」公式サイト https://www.nanbubijin.co.jp/
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〜 出会いの縁が織りなす、食という幸福 〜
フードクリエイター・料理家 森村芳枝さん
和食やタイ料理など、独自のセンスで食文化の可能性を開拓する料理家、森村芳枝さんのインタビュー。波乱万丈、ドラマチックな前半生を語る前編に続き、今回はいよいよ料理の世界の核心へと迫る後編をお届けします。
●運命の歯車が回り出した!
森村:勤めていた銀座のギャラリーが閉店して暇を持て余していた頃、狂言の大鼓(おおつづみ)奏者の友人から頼まれ、彼の開催するイベントの事務局を手伝うことになりました。
野菜や果物を使ったフルーツカービングを習っていたのですが、当時の日本では、フルーツカービングアーティストがいなかったので、珍しがられて、これが「面白い」と評判を呼び、私が風邪で仕事を休んだときに、イベントのパンフレットにフルーツカービングアーティストとして私の名前が入れられてしまったのです。もう載ってしまっているから仕方がない、では何か作品を作らなきゃ、となって。
ロズリン:何かが始まる予感がしてきました。
森村:このときの作品が料理研究家の先生の目にとまり、「あなた面白いから、ぜひ私のサロンにいらっしゃい」と。それが、マキシム・ド・パリなどを日本で立ち上げた花田美奈子先生です。
玄米などの自然食を提唱する先生のギャラリーカフェで、自然食のタイ料理パーティーを開催していたとき、ご来店されたファッションデザイナーの花井幸子さんから「あなたのお料理は美味しい」とお褒めの言葉をいただきました。
花井先生は、とてもお料理上手で、よく家庭画報などに美しく盛り付けられたパーティー料理が掲載されており、憧れの存在でした!その花井先生にお墨付きを得たので、お料理に自信が付きました。
ロズリン:それは知りませんでした。
森村:私は、茶道と懐石料理を長年、鎌倉に通って勉強し、茶懐石料理教室の助手をしておりました。
アートスペースハナダで働くようになって、「料理を仕事にできるだろうか、やっていけるだろうか」と考えはじめました。
タイ料理はその頃のブームもあって、あるとき新店の立ち上げで声がかかりました。しかし、料理人たるもの本来3年は修業すべきだから、1年にも満たずの独立は不安だと花田先生に相談したら、「あなたはへっぴり腰だけど、人の心をひきつける魅力があるから」と送り出されて。そうして、埼玉でタイ料理店の立ち上げのプロデュースに携わりました。
●天賦の才能が輝くとき
ロズリン:ようやく、本格的に料理の道へと参入したのですね。
森村:その後、「自宅を開放するから、料理教室を開いてほしい」という友人の申し出を受け、人に料理を教えるという新しい世界の扉が開いたのです。
新しいこと、難しいことにチャレンジするのが好きな自分としては面白くなっていきました。
ロズリン:いよいよ羽ばたくときが来た、という感じがします。
森村:数年間、タイ料理教室やタイ料理のケータリングを中心に活動していましたら、やがてネットから私の情報を見つけた人や、大手企業からもオファーが増え、それが現在につながっています。
直近の10年間は、母を介護する事情から仕事量を減らしていました。
精進料理の第一人者鎌倉不識庵の藤井まり先生のところで精進料理を勉強したり、お手伝いしたり、さらに研究を積んでいます。
ロズリン:研究熱心でいることは、料理家として大切ですよね。
森村:まり先生にタイ料理を教え始めて30年近くになるというお話をしたら、では、不識庵でタイ料理教室を開催しましょう!ときっかけをいただきました。せっかく精進料理教室で教えるので、精進風にしようと、タイ料理を精進風にアレンジして教えました。始めた頃は「精進風タイ料理」と銘打っていたのですが、やがて生徒さんから「本格的なタイ料理を習いたい」とのご要望も増えていったので、今は、自宅での本格タイ料理教室が復活いたしました!
地球温暖化で世界中が亜熱帯化している今、タイ料理に関心が高まっています。
母中心の生活でしたので、和食が多くなっておりましたが、母を見送り、自分の食生活が戻って来て、今また再び、タイ料理に魅せられています。
●ブームの予感? タイ宮廷料理の華やかさ
ロズリン:森村さんは、豆腐マイスター協会の幹部講師もされています。私たちサンギとは「つきじおから茶」の開発でお世話になって以来のご縁ですよね。
森村:お豆腐とのご縁と言えば、豆腐料理のコンテストで2回、受賞したのがきっかけでしょうか。
2011年の豆腐プロジェクトジャパンでは、豆腐を使った【タイ風がんもどき】2012年の大阪府堺市のコンテストでは、私が一番影響を受けた、同地出身の千利休に捧げる料理で、「絶対に賞を取りたい!」と燃え応募し、私が落ち込んでいるときに支えてくれた大阪堺市の友人に賞を取って元気になって会いに行きたいと思い、偉大な千利休に捧げる料理をテーマに、黒楽茶碗とお抹茶をイメージし、季節の色どりを添え、利久にまつわるエピソードを盛り込んだ、お抹茶色の茶そば【利休風豆乳そば】を出品しました。
利休風豆乳そば(豆腐があればごちそうレシピより)
ロズリン:きれいでゴージャスで、とても美味しそう!
森村:これは私のキャリアの中でも、まさに“降りてきたレシピ”でした。ただこうしたひらめきは、偶然に見えても長年の積み重ねがあってこそのものだ、という方がおりましたが、本当にそうかもしれません。
ロズリン:豆腐は、まだたくさんの可能性を秘めた食材なのでしょうね。
森村:豆腐は中国が発祥ですが、お豆腐そのものをおいしくしようと工夫するのは日本だけなのです。職人気質なのでしょうね。中国料理では、豆腐の形状など種類が豊富で、豆腐をいかに料理しておいしくするかが重要で、生の豆腐そのものををおいしくすることにはあまり関心を払いません。
日本は生食の文化なのにも起因していると思われます。
ロズリン:なるほど、確かにそれはあります。
森村:豆腐そのものの味わいを大切にする日本人の繊細さ、職人魂を支えたいので、せめて町に1軒は残ってほしいのですが……高齢化と後継者不足、大豆の高騰などで、消えゆく傾向は止められません。私の小学校時代の同級生も実家がお豆腐屋さんでしたが、後を継ぐことはありませんでしたし。
ロズリン:料理の本を出版されたことは?
森村:まだないのです。以前に一度、チャンスはあったのですけれど。
ロズリン:ぜひとも出してほしいです、きっと素敵な本になりますよ。
森村:ありがとうございます。自分のスタイルが完成した、と自分自身で腑に落ちないうちはだめだ、というのがあって。でも最近は、そろそろ潮時かなとも思います。テーマはタイ料理か、江戸料理か、あるいはシリーズ化するのも良いでは?とアドバイスされたりしております。
ロズリン:一つが売れたら、次々に話がくるものです。
森村:インプットばかりでなくアウトプットもしなさい、とよく言われます。
タイ料理のジャンルであまり知られていない宮廷料理は、お花を材料にしたり、見た目が和菓子のようだったりと非常にアーティスティックなのですが、作れる人は少ないのが現状です。
和食にしても、一般に知られている懐石料理に比べて、江戸料理はまだ耳になじみがありませんから、私の15年間の研究成果を紹介する機会があればうれしいです。
●縁(えにし)の上で花開く、明日の料理
ロズリン:森村さんのお話を伺っていると、人の縁によって人生が本来あるべき方向に導かれていったように見えてきます。料理こそが天職だったんですよね。
森村:食べることが好きなので、そうかも知れません。何より、母がパスポートの申請書類にひらがなでサインしなかったら、私は今ここにこうしてはいないかもしれません(笑)
ロズリン:厳しいお父様の影響も、現在の活動にずいぶんと活かされているのでは?
森村:厨房の設計士だった父は、包丁を20本持っているほど、料理も玄人はだしの人でした。そもそも料理ができない人に、厨房の設計はできないらしいのですね。家のお風呂場にいきなりアンコウが吊るしてあったときには驚きましたが、父がさばいたあんきもは美味しかったですよ。
実家は近くの築地市場の仲買人の方々が出入りして、いつも何かとにぎやかでしたから、料理にこだわりがあるのは当然でしょうね。私も、子ども時代からお寿司はカウンターでしか食べたことがないのですが、主人から「それは人前で言っちゃいけない」と口止めされてます(笑)。
ロズリン:幼い頃から、味覚を鍛える環境に恵まれていたのは大きいですよ。
森村:私の料理は、子供の頃から、たとえばみそ汁などは父も褒めてくれるほどでしたし、おつまみにしても、お酒が飲めない母より私のほうが上手く作れて評判も良かった。あれもやはり、飲める人の勘どころを分かっているからだと言われます。
ロズリン:思わずうなずいてしまうお話です。
森村:父の亡き後、実はあのマキシム・ド・パリの厨房設計も父と叔父が手がけていたと知りました。こうなると、私は結局、父の手のひらで走り回ってただけなの? と思ってしまいます。
ロズリン:出会いの縁に恵まれ、導かれ、豊かな世界を創り出すのは、本当に素晴らしいことです。
森村:ええ、ロズリンさんともこうして、ご縁がつながったわけですから。
[ロズリン インタビューを終えて]
白が大好きという森村さん、この日も白のコーディネートがよくお似合いでした。ご自宅で育てたハーブを加えたおから茶と、寒天で固めた江戸時代のお豆腐のデザートは、まさに絶品&未知の美味しさ!
人を幸せにする料理は、あくなき探求心と好奇心、光るセンスが一体となって生まれるものだと実感しました。いつもワクワクして、キラキラ輝く森村さんが、これからも素晴らしい料理で私たちを驚かせ、幸せに導いてくださるよう、こちらもワクワクしながら期待しています!
【森村 芳枝(もりむら・よしえ)さんプロフィール】
フードクリエイター/料理家
タイ料理教室主宰/タイ国大使館認定タイフードコンシェルジュ
一般社団法人日本豆腐マイスター協会理事・豆腐マイスター認定講師
いなり寿司マイスター認定講師
東京生まれ、実践女子学園卒。現在、東京・月島の自宅にてタイ料理教室「ヨシエズキュイジーヌ」を主宰するほか、「豆腐マイスター認定講座」や、「いなり寿司マイスター講座」、茶道・懐石料理、江戸料理を中心に日本の食文化研究および普及にも取り組む。
ヨシエズキュイジーヌHP http://yoshiesc.mints.ne.jp/
instagram https://instagram.com/sweetmintchoco1234/
森村芳枝X(Twitter)https://twitter.com/sweetmintchoco
(一社)日本豆腐マイスター協会 https://mytofu.jp/cookingteacher/morimura/
]]>ここは現世なの?と錯覚するぐらい美しい空間が広がり、海の色は様々な濃淡のブルーを覗かせます。
白、青、時おり遠くに見える岩肌の大地の黒。
見事な3色がシンプルに延々とつづく景色は、言葉を失う圧倒的な美しさでした!
フランス籍の船Le Commandant Charcot
夫が景色を見て
お話していた通り、この年末は世界6大陸の1つで、私が訪れる最後の大陸である南極への旅、
まさにアドベンチャーへ出掛けてきました!
南極へは様々なルートがありますが、私たちの場合は羽田からシドニー経由でまず南米・チリの首都サンティアゴへ飛びました。
念のために余裕をもった到着でしたので、三泊した後、世界最南端の港であるアルゼンチンの「ウシュアイア」という街へ向かいました。
ウシュアイアは南極への玄関口となっており、私たちの乗船する船もここからいよいよ出発です。
南極へは、フランス籍の船Le Commandant Charcot(ポナン(PONANT)社の一隻)で向いました。
客船として数少ない砕氷船(さいひょうせん:Icebreaker)で、文字通凍った海面を砕きながら進める船です。
氷を分け入り、他の客船より深く南へ突き進んでいくことが可能でした!
ポナン社は「研究船でもある」と誇りを持って、数人の学者や研究生も乗船していますが、船内に設置されている研究室で南極やそこに生息する生き物など、様々な研究を進めています。
そして彼らのもう一つの役目が、乗船客のために船内で行われる講義の講師を務めることで、現地に降り立つときに専門家としてツアー案内もしてくれます。
それは乗船客にとって素晴らしい機会となりますし、旅行中は最初の探検者に関する様々な書籍を読み、
その内容を目の前で確認できた自分にとっても、一生忘れられない貴重な体験でした。
日頃は仕事に追われショートスリーパーの私ですが、旅行中は仕事を忘れ読書にいそしみ、
毎晩ぐっすりとたくさん睡眠をとることができました。
すっかりリフレッシュしました!
ここでひとつ新しく得た知識をご紹介します。
英語では北極を「Arctic」、南極を「Antarctic」と言いますが、「arctic」の語源はギリシャ語の「artikos」で、「熊」という意味だそうです。
皆さんご存じでしたか。なぜそうなのかが大変面白い。
実は北極にはシロクマが生息していますが、南極にはクマはいません。
そこで熊がいる北極をArcticと言うのに対して、熊がいない南極をAntarctic(「Ant-無い」つまり「熊はいない」)と言うことになっています。
また星座の「おおぐま座」は北半球でしか見られず、北極の目印ですが、南半球では見られません。南極では南十字星が目印です。
さて動物といえば、南極旅行の目的のひとつでもありました。
多くのアザラシやクジラを見ましたし、たくさんのかわいいペンギンがお出迎えしてくれました!
船の上から見たクジラ
南極のペンギン
ペンギンは人間をまったく怖がりません。
逆に好奇心旺盛で、研究者と歩いている私たちに「何をしているの?」とばかりに近寄ってきます。
野生動物とは一定の距離を保つようにとの約束事がありますが、あちらから近寄ってきてしまうのですから、私たちはあわてて後ずさりしていました(笑)。
南極にはたくさんの約束事があり、旅行者は船を降りる際にキャメラ以外何も持ち込んではいけない。
何も拾って船に持ち帰ってはいけませんし、服に付着したものまで丁寧に取り除き、長靴は下りるときも戻る際にも土などを落として消毒しないといけません。
ゴムボートのZodiacに乗り換え、流氷の中を進みます
旅に終わりはつきもので、本当にあっという間の2週間でした。
素晴らしい体験の数々、もっと皆さんにご紹介したいことがたくさんあるのですが、今回はここまでとします。
皆さんも是非訪れていただきたい、夢のような場所でした!
では、お待たせしました。
今回は久しぶりに、ロズリンのお土産プレゼントが復活です!
私が厳選したお土産を、ブログを読んでいただいた5名様へプレゼントします。
まずは私が出会ったかわいい野生動物・南極ペンギンのぬいぐるみです!
実際には手を触れることができませんでしたが、このぬいぐるみのふわふわとした手触り(実はペンギンのひなの状態)は、ペンギンと少し近いものがあるかも?知れません(笑)。
とっても癒されることは間違いなしです!
ぬいぐるみ(おひとり様1体です)
そしてもうひとつが、こちらのニット帽です!
ニット帽(ブルー、グレーどちらか選んで!)
2色ご用意したのですが、とっても暖かそうな一部絹を含む素材で、絵柄としてペンギンが織り込まれています。
どちらの色か好きな方を選んでご応募くださいね。
ペンギンのぬいぐるみを3名様
ニット帽2色を各色1名様ずつで、合計5名様へのお土産になります。
以下のリンク先からご応募くださいませ。
年初にお伝えしたように、今年はサンギ50周年となっています。
様々な活動を通じて、「あなたと輝く毎日へ」を企業スローガンに掲げ皆さんを益々元気にするお手伝いを継続していきたいと思います!
50周年を記念したページをサンギサイトに設置しましたので、是非こちらもご覧ください。
■ロズリンのお土産プレゼント
2024年2月15日(木)まで
合計5名様 にプレゼント。(ぬいぐるみ3名、ニット帽2名)
たくさんのご応募ありがとうございました!
ご当選者の発表は商品の発送をもって代えさせていただきます。
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〜 出会いの縁が織りなす、食という幸福 〜
フードクリエイター・料理家 森村芳枝さん
本格的な和食をはじめ、タイ宮廷料理などの料理教室を主宰するかたわら、豆腐マイスターとしても活躍する料理家の森村 芳枝さん。東京・月島の料理教室「ヨシエズキュイジーヌ」は、自家栽培のハーブなどたくさんの植物に囲まれた、風情ある一軒家です。今回のインタビューでは、日々新しい料理のアイデアを模索する森村さんの、無限に広がるレシピ作りの秘密に迫ります。
●大きな愛に囲まれた、木造の家
ロズリン:私の主人の実家は八丁堀なので、佇まいがよく似たここはとても懐かしい感じがします。狭い路地があって、部屋でお茶を飲んでいると、お隣の人が気軽に通り抜けて行くんですよ(笑)。
森村:そのほうが近道だからですね(笑)。
ロズリン:近隣との密なコミュニケーションがありましたよね。主人は子どもの頃、たばこ売りの店番もさせられていたそうですし。
森村:ここも築80年ですから古いのですが、木の造りの家って、ホッとできて落ち着きますよね。
ロズリン:とてもいい雰囲気です。
森村:この家は、たくさんの人の愛で成り立っているんです。もともとは、厨房設計士だった父が事務所にしていたんですが、昔は築地市場の仲買人の人たちが出入りするなど、常に人が集まって交流するにぎやかな場所でもありました。
ロズリン:この茶釜など、とてもしゃれていて見事です。
森村:作り付けの棚とか、祖父が持っていたイギリスのアンティークの棚、上海の友人が譲ってくれたサイドボードなどなど、別々にいただいたものなのですが、なんとなく調和が取れております。今はこんな風に、懐石料理やタイ料理などに使う食器類を納めるのに使っています。
ロズリン:ずっと、ここ月島で暮らしていたのですか。
森村:はい。ですが結婚してから、新婚旅行を兼ねて大好きなハワイにしばらく居たこともあります。二人とも本気で移住したかったのですが、ビザの取得が難しくて諦めざるを得ず、語学留学として3ヵ月ほどの滞在でした。向こうには友人もいるし、何よりハワイの風が大好きなんです。風も太陽も心地よくて、現地の人はフレンドリーで。
●夢も現実も、試練とともに
ロズリン:かつては、将来にどんな夢を描いていたのでしょう?
森村:最初は、ファッションデザイナーに憧れていました。今のような既製服が豊富になかった頃、服は自分で作るか、プロに仕立てを頼むかしかなかったでしょう。
けれど、うちは母がおしゃれな人で、目白の洋裁店であつらえることが多く、外国の雑誌を見て、イタリアの生地でお揃いであつらえたりしていたので、ファッションへの興味が高じていったのですね。小学校の卒業文集にも「私は、ファッションデザイナーになって世界各国を駆け巡りたい」と書いていたくらいですから。
エスカレーターの附属中学に通っていたのですが、美術が得意でしたので、高校は女子美に行きたくて。でも、父の反対でそれは断念。私は子供の頃から「自分の感性をカタチにしたい」という思いが強く、高校を卒業してようやくファッションの道に進むことになりました。19歳のとき、本格的に学ぶならやはり本場に行きたいと、仏ソルボンヌ大の準備校への留学をひそかに計画しました。
ロズリン:素晴らしい!
森村:もちろん、父は反対するに決まっていますから、パスポートの申請書類は母にサインをもらいました。ところが母は、自分の名前の難しい“禰”という漢字をひらがなで記入してしまったのですよ。当然、法務局から問い合わせがきて、その電話に父が出て……すべてが水の泡になりました。
ロズリン:あらあら、大変!
森村:父はもう激怒しまして、留学手続きのすべてを泣く泣くキャンセルさせられました。
この件で私は、「この家を出るしかない!」と決意し、20歳になるとすぐに、代官山で一人暮らしを始めました。中学校が代官山の近くでしたので、学校帰りによく散歩していて、お気に入りの環境でした。
古いマンションのワンルームで、内部は木をあしらった造りがとても素敵な部屋で、あの当時でフローリングの床なんてなかなか無かったのですよね。
そこでアルバイトをしながら、留学のチャンスを待つ生活を心からエンジョイしていましたら、今度はA型肝炎でダウン……実家に戻るしかなくなり、一人暮らしはそこであえなく終了しました。
●人生はジェットコースター
森村:全快した後、友人の紹介でイタリアのカッシーナ社でインテリアコーディネーターのアシスタントとして、六本木のショールームで勤務することになりました。
ロズリン:そうすると、ファッションの勉強のほうは?
森村:私は、コツコツと積み重ねて作り上げることのほうが好きなのですよね。でも、アパレルは基本的に「新しいものを作っては捨てる」の繰り返しですから、それは自分には合わないと気づいたのです。そこで、以前から興味のあったインテリアの世界に飛び込みました。
ロズリン:華麗なる転身ですね。
森村:インテリアコーディネーター候補として入ったのですが、ショールームの営業職と兼務する激務でしたし、やはり「何か違うなあ……」という違和感が拭えなくなり、しばらくして辞めました。
ロズリン:ああ、そうですか。
森村:その次は、外国製のランジェリーのレースの美しさに魅せられたことで、美しいレースに関わる仕事がしたくなって、レースメーカーの企画営業職にチャレンジしました。レースの本場はヨーロッパですから、パリとベルギーの展示会に行ける約束だったのですが、何と湾岸戦争の影響で、海外出張の機会は残念ながら訪れませんでした。
ロズリン:そういう時代がありましたよね。
森村:一人で新規開拓したり、ベテランバイヤーの前でプレゼンしたりの激務をこなしてがんばっていたのですが、さすがに疲れが限界にきて休職し、3年の契約期間が切れました。
ロズリン:ドラマのような展開は、まだ続くでしょうね。
森村:はい、その後は絵画のギャラリーに勤めたいと考えました。
ロズリン:絵もお好きですか。ご自分でも描かれますか?
森村:どちらかと言うと彫刻のほうが好きで、野菜や果物を使うフルーツカービングが得意なのですが、絵はあまり上手じゃないのです。
京橋の木版画専門ギャラリーから、銀座のギャラリーへと移って、やっと腰を落ち着けられるかなと思っていたら……バブルがはじけて、ギャラリーはクローズしてしまいました。
ロズリン:まあ〜、本当に波乱万丈!
森村:何と言うかもう、時代に翻弄される前半生でしたよね。
後編へ続きます。
【森村 芳枝(もりむら・よしえ)さんプロフィール】
フードクリエイター/料理家
タイ料理教室主宰/タイ国大使館認定タイフードコンシェルジュ
一般社団法人日本豆腐マイスター協会理事・豆腐マイスター認定講師
いなり寿司マイスター認定講師
東京生まれ、実践女子学園卒。現在、東京・月島の自宅にてタイ料理教室「ヨシエズキュイジーヌ」を主宰するほか、「豆腐マイスター認定講座」や、「いなり寿司マイスター講座」、茶道・懐石料理、江戸料理を中心に日本の食文化研究および普及にも取り組む。
ヨシエズキュイジーヌHP http://yoshiesc.mints.ne.jp/
instagram https://instagram.com/sweetmintchoco1234/
森村芳枝X(Twitter)https://twitter.com/sweetmintchoco
(一社)日本豆腐マイスター協会 https://mytofu.jp/cookingteacher/morimura/
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年末年始はどのようにお過ごしでしたか?
帰省や旅行におでかけの方、お仕事だった方もいるかも知れません。
新たな年、サンギも1月9日から営業開始です。
毎年干支の画像で新年最初の投稿をしていますが、今年の干支は辰年ですね。
辰は竜で現しますが、干支の中で想像上の動物はこの竜だけです。
竜というと神の化身のイメージがしますが、中国では古くから皇帝のシンボルとして使われ、「竜顔」(帝王の顔)など皇帝にまつわる言葉もあるなど、権力の象徴です。
竜の顎の下には1枚だけ逆さに生えた「逆鱗」があり、ここに触られるのが大嫌いで、触れられると烈火のごとく怒り狂ったという伝説があるそうです。
「逆鱗に触れる」という表現は、ここから生まれた言葉だそうです。
辰年は活力旺盛になって大きく成長し、形がととのう年だと何かで読みました。
実はサンギにとって本年は大きな節目、おかげさまで50年目を迎えました!
これからさらにすばらしい将来を目指して、幸先良いスタートが切れること祈っています!
南極大陸制覇のご報告は、また改めて。
今年もよろしくお願い致します!
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早いもので、今年も残すところあとわずかとなりました。
この1年、皆さんにとってどんな年だったでしょう。
突然ですが、世界にある大陸の数をご存じですか?
言うまでもなく、世界には6つの大陸がありますよね。
私の出身地である、オーストラリア大陸、ユーラシア、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、そして南極です!
オーストラリア大陸は一番小さな大陸ですが、唯一1つの国の領土となっている大陸です。
これまで世界中の様々な国へ、仕事やプライベートで訪れてきました。
そして、これらの大陸を制覇してきたと言えます(笑)。
いまだに制覇できていなかったのが、
そう、南極大陸です。
南極には日本・オーストラリアを含め各国の観測基地がありますが、太陽の光が届きにくく、人間が住むのに研究以外にはほとんど無理な環境ですね。
年中一面が氷で覆われているイメージです。
ですが南極にも多くの動物達が暮らしています。
なぜこんなお話をしたのかと言いますと、この12月に南極に行くことになりました!
お仕事ではなく、もちろんプライベートです。
南極って普通の旅行で行くことができるの?と、思った方もいるかも知れません。
でも行けるんです。
実は、皆さんにはご報告できていなかったのですが、
今年の夏休みに、北極へのクルーズ旅行に参加したんです!
本当は3年前に北極へ行く予定だったのですが、新型コロナウイルスで保留となっていました。
今年やっとコロナが落ち着き、いよいよ行くことができたんです。
そしてもちろん素晴らしい旅になりました。
小さいゴムボートに乗り換えて探検です!(笑)白い帽子が私。
<実際に見た動物の写真>
北極で暮らす様々な野生動物に出会うことができました!
で、その旅行があまりにも楽しくて、今度も同じクルーズ会社の南極へのクルーズにもさっそく参加することにしました。
南極ではどんな出会いがあるのか分かりませんが、動物が大好きなので、ペンギンやゾウアザラシなど、南極に生息する野生動物をみることも楽しみの1つです。
最近お土産プレゼント企画をやっていなくて、すみません。
今回の旅行ではぜひ素敵な何かを持ち帰りたいと思います。
南極にお土産のお店があるかわかりませんが、お楽しみに!
来年はまたサンギにとって、大きな節目となる年。
サンギの50周年になる年だとご存知でしたか。
年末年始はしっかりリフレッシュして英気を養い、新たな年を迎えたいです。
皆さんも、良い年末年始をお過ごし下さいね。
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株式会社加藤製作所 副社長 加藤里絵さん
●ソニーの営業→マーケティングの経験がいまの仕事に生きている
ロズリン:加藤さんは、この会社に入るまではどのような仕事をされていたんですか。
加藤:九州の大分県で生まれ、福岡県の大学に行きましが、卒業後、ソニーに就職して東京に出てきたんです。
ロズリン:ソニーでは何を?
加藤:国内営業の部署に配属され、カメラの営業をしていました。数年して、ふと「海外と関わる仕事がしたいな」と思い、社内公募にチャレンジしたところ、願いが叶って海外マーケティング部に異動できました。英語が得意なわけではなかったので、すごく大変だったのですが、なんとか頑張っていました。
ロズリン:営業は大変でしょうけれど、マーケティングの仕事をするのに営業の経験はプラスになったでしょうね。
加藤:そうですね。お客さまのニーズをいかにプロモーションしていくかがマーケティングなので、営業を通してお客さまのニーズをキャッチするスキルを身につけられたのは良かったと思います。
ロズリン:マーケティングの知識はすぐに身につきましたか。
加藤:ソニーは研修がすごく充実していて、外部の研修も、希望すればどんどん行かせてくれたんです。それで、たくさんの研修を受けて知識をインプット。学んだことはすぐに実践し、業務に生かしていきました。
ロズリン:すばらしい。
加藤:そのうち「どうせなら海外に赴任したいな」と思い始め、チャンスが巡ってきたので中国・香港に赴任しました。
ロズリン:中国ではどんなお仕事をしていたのですか。
加藤:中国全土のプロモーションを担当しました。大変ではありましたが、中国の営業の方とミーティングを重ね、プロモーションプランを練り上げていく仕事は、とてもやりがいがありました。展示会をしたり、ポスターを作ったり、すごく楽しかったです。
ソニーでの経験がいまの仕事に生きています。ソニーには本当に感謝しています。
●夫と出会い、予想もしなかった人生に
ロズリン:現地では中国語を話していました?
加藤:いやー。挑戦したんですけど、中国語は発音が複雑でむずかしくて。結局、英語で仕事をしていました。
ちなみに、弊社の社長(主人)は中国語ができるんですよ。若いころ中国に語学留学をしていたので、ペラペラなんです。
ロズリン:旦那さまとは中国で知り合ったのですか?
加藤:いえ、中国で仕事をしていたときの同僚の親戚なんです。紹介してもらい、ネットで話をしているうちになかよくなりました。お付き合いを始めたのは日本に帰国してからです。
ロズリン:ええ…ソニーでバリバリお仕事をされていた加藤さんが、中国に赴任されたことがきっかけで旦那さまと出会い、こうして缶の会社を切り盛りするようになるとは、不思議ですね。
子どものころ、こういう人生をまったく予想していなかったでしょう。
加藤:本当に。ソニーでの仕事はとっても楽しかったので、ずっと働き続けるつもりでした。でも、結婚してから子どもがほしくなり。会社員で勤めながらだと難しいと思ったので仕事をやめて、主人の会社を手伝うことにしたんです。
ロズリン:私もいまはここの社長ですけど、主人がこの会社を作るのに一緒にやらないかと言われたときは、別のキャリアがいいと思っていたので断って自分の好きなことをしていました。その後、紆余曲折あって、会社を手伝うことになりました。
それまでとは全然、畑違いの分野でしたので何もわからないところから始めましたが、毎日がバラエティにとんでいておもしろかった。
いまも毎朝、出社するときに「今日は何が起こるかな」ってワクワクするんですよ。こうしてすてきな方に会うこともできるし、おかげさまで楽しくやっています。
●商品がよくてもマーケティング力がないと売れない
加藤:ところで、アパガードの商品はいいですよね。先日、うちの社員にも配ったんですよ。そうしたらみんな「ちょっとみがいただけで歯がツルツルになる」って大喜び。リピートしている人も多いみたいです。
ロズリン:うれしい! ありがとうございます。「値段が高い」という人もいますが、化粧品やスキンケア商品に比べたら高くはないと思うんですよね。
加藤:最近、思うのは、マーケティングがいかにすぐれていても商品がよくないと売れないし、逆に商品がいくらよくてもマーケティング力がないと売れないんです。
ロズリン:それは本当にそうですね。
加藤:だから私、商品についてちょっとここ問題だなと思ったら、社員を呼んでミーティングをするんです。責任を追求するのではなく、責任は私が負うので、次に同じことが起こらないためにはどうしたらいいか考えたいと伝えたうえで「ここ、どうしてこうなったのかな」って。
ロズリン:たとえば、どんな問題が起こり、どのように対処していますか。
加藤:小さなことから大きなことまで日々、いろいろなことが起こります。初歩的なミスでいえば、「ゴールドで印刷してください」と言ったのにグリーンで印刷してしまったとか。人がやっていることなので、コミュニケーション不足や思い込みでそういうことも起こってしまうんですよね。それを責めるのではなく、「じゃあそれはどうしたらいいと思う?」と問いかけて、フローを変えるなどして対処します。
●海外に茶筒缶のよさを広めたい
ロズリン:最後に、将来の夢についてお聞きしましょう。
加藤:海外の方に買ってもらいたいと思っているんです。茶筒缶のよさを海外の人に認めてほしい。たとえば、香港とか湿気がすごいので、ぜひ食品保存などに使ってもらいたいな、と。
ロズリン:絶対に売れると思います。和紙の缶も外国の方には喜ばれそうですよね。
加藤:実は最近、荒川区モノづくり見学・体験スポットに認定されたんです。外国の方も多くいらっしゃる可能性があるので、ここでも缶の魅力をアピールできるかなと思います。
ロズリン:それはいいですね! がんばってください!
加藤:ありがとうございます。がんばります!
[ロズリン インタビューを終えて]
思いもかけなかった人生の展開を、アグレッシブに楽しんでいらっしゃる加藤里絵さん。はじめは違うキャリアを築いていたのに、ご主人のお仕事を手伝うことになったくだりは私と似ていて、親近感をおぼえました。お互いワクワクする毎日を過ごしていきましょう。心から応援しています。
【加藤 里絵(かとう・りえ)さんプロフィール】
株式会社加藤製作所/副社長
大分県生まれ。大学卒業後、ソニー株式会社に就職。国内にてカメラ営業として従事したのち、希望が通り海外マーケティング部に異動。2014年まで中国全土のプロモーションを担当。
2015年より、明治28年創業の120年以上続く老舗茶筒メーカー「株式会社加藤製作所」入社。2023年より副社長を務める。
株式会社加藤製作所公式サイト http://kato-seisakusho.net
株式会社加藤製作所公式Instagram https://www.instagram.com/kato_seisakusho
]]>皆さんに嬉しいお知らせがあります!
今年3月にアパガードのラインナップに新たに加わった、ステインケアタイプの美白歯みがき「アパガードセレナ」はお試しいただきましたか?
実はこのアパガードセレナが、一年の販売期間も経たないのに、あの国内最大のコスメ口コミサイトで
今年度のオーラルケア1位を受賞したんです。
2017年に同アワードのオーラルカテゴリーで初の殿堂入りを果たしたアパガードプレミオ、そして同年に1位を受賞したアパガードスモーキンに続く、すばらしい快挙です!
何より多くの方々にお使いいただき、気に入っていただけた結果で、本当に感謝しています。
皆さんありがとうございました。
今年最後のこの嬉しいニュースに、サンギスタッフ一同喜んでいます。
来年も自信をもっておすすめできる商品をお届けしていきますので、よろしくお願いします。
こちらでは、アパガードセレナ現品(53g)プレゼントを実施中です。
是非ご覧ください。<外部サイト/2024年1月2日(火)まで>
]]>
皆さんご存知でしたでしょうか。
オーラルケアブランドとしてコフレセットを発売したのは、おそらくアパガードが初めてだと思います。
今年で第4弾目となりますが、2023年はオリジナルのギフト缶に「アパガードプレミオ」の3つのフレーバーをおさめた限定セットです。
今回は明治28年創業の老舗缶メーカーが、アパガードのために素敵なギフト缶を製作してくださいました。
老舗缶メーカー加藤製作所副社長、加藤里絵さんはつい最近私のブログインタビューにご協力いただきましたが、ご覧になりましたか?
まだ読んでいないという方は、ぜひこちらから前編をご覧ください!
さて、私からのクリスマスプレゼントとして、この「アパガードコフレセット2023」を
3名の方へプレゼントさせてください!
左から、ライトミント、エクストラミント、ラベンダーブーケ、3つのフレーバー
商品詳細はこちらからご確認ください。(リンク)
今年はどんなクリスマスを予定されていますか?
皆さまにとって温かく楽しい時間になりますように。
■ロズリンの部屋プレゼントご応募は終了しました!
2023年12月12日(火)まで
3名様 にプレゼント。
たくさんのご応募ありがとうございました!
ご当選者の発表は商品の発送をもって代えさせていただきます。
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株式会社加藤製作所 副社長 加藤里絵さん
明治時代より茶筒・珈琲缶・菓子缶等の製作を手がける加藤製作所の4代目社長の妻で、副社長を務める加藤里絵さん。企業勤めで培ったマーケティング力を生かし、日本の伝統技術と現代のセンスを絡めたすてきな製品を次々と世に送り出しています。
アパガードのホリデーシーズンを彩るクリスマスコフレを入れる缶を製作していただいたご縁で、インタビューにお越しいただきました。
●加藤製作所の手作り缶は、大切なものの保存にぴったり
ロズリン:今回、コフレセット用に作っていただいた四角缶、とても繊細ですてきです!
加藤:ありがとうございます。75歳の職人がブリキ板を曲げるところからすべて手作業で成形したものなんです。
ロズリン:すごく軽くて、まるで紙の箱みたい。これがブリキ製だなんて、職人さんの技はすごいですね。
▲アパガードプレミオコフレセット
加藤:私は7歳の子どもがいるんですが、その子が0歳のときから毎年誕生日にメッセージカードと写真を缶の中に入れて保管しているんです。ふたと本体が絶妙にフィットして光や湿気から中身を守ってくれるので、食品の保存はもちろん、写真など大切なものをしまっておくのにぴったりなんですよ。
●モダンなデザインに切り替え、業績が上向きに
ロズリン:加藤製作所は、ご主人の会社ですね。
加藤:はい。弊社は明治28年創業で、主人が4代目の社長、私が副社長を務めています。
ロズリン:ここまでの歴史を教えてください。
加藤:1代目が創業した当初は、アルマイト*のお弁当箱を作っていました。それがあんまり儲からなくて、2代目が茶筒を作り始めました。どこの家にも2つ3つは茶筒があった時代です。
ロズリン:和紙を貼った茶筒、わが家にもあります。味わいがあってすてきですよね。
加藤:おかげさまで当時は需要が多く、そのときに会社がだいぶ大きくなったのです。でも、そのうちお茶といえばペットボトルが主流になってきて。家庭でお茶っぱからお茶をいれて飲む習慣が廃れ、茶筒の出番が減ってきました。それで、20年ほど前には会社がつぶれかけました。
ロズリン:そんな時期もあったのですね。
加藤:そんなときに、コーヒー豆屋さんが訪ねてきたんです。「完全密閉性ではないからガスが適度に抜けつつも光や湿気を通さない茶筒のしくみがコーヒー豆の保存にちょうどいいと思うんだよね」と。和風なデザインだと若い人が買ってくれないということで、色をつけて模様をプリントしてモダンなデザインにしました。
ロズリン:なるほど。
加藤:茶筒缶に保存しておくとコーヒー豆の保ちがいいということがどんどん口コミで広がり、どんどんお客が増えて、会社が持ち直したんです。
*アルマイト(陽極酸化処理):アルミニウムを陽極(+極)で電解処理して人工的に酸化皮膜(アルミの酸化物)を生成させる表面処理のこと。
●熟練の職人が一つひとつ手作業で
ロズリン:どんな工程で作っているのですか。
加藤:まず、ブリキをカットして曲げ、成形します。次に、ろくろを回して缶に塗装します。それを2時間くらい釜で焼き、最後に模様をシルクスクリーンで印刷します。
ロズリン:手がかかっているのですね。職人さんは何人くらいいますか。
加藤:10人くらいですね。工程ごとに専門の職人がいて、成形をする人、塗装する人、印刷する人と分かれて作業しています。
あと、職人というカテゴリーではないと言われそうですが、私自身は「これぞ職人だ」と思っているのが検品をする人。うちの検品担当はすごいんです。私が見てもまったくわからない小さな傷とか凹みを見つけてくれます。
ロズリン:一人前になるまでにどれくらい時間がかかりますか。
加藤:成形が一番難しくて、20年はかかりますね。塗装が10年くらい。印刷は早いですが、それでも5年はかかります。
ロズリン:わあ、そんなにかかるのですね!
加藤:そうなんです。いま、職人の高齢化が進んでいて……。若い方にどんどん入ってきてほしいのですけれど、最近はハングリー精神のある人がなかなかいなくて。職人の確保は今後の課題ですね。
●SNSの発信でオーダーが増えた
ロズリン:加藤さんは会社で、どのような仕事をされていますか。
加藤:私が入社したのは10年くらい前なのですが、当時は電話番号が載っているくらいの簡単なホームページしかなかったんです。そこで、まずはホームページやInstagramなどを充実させました。
茶筒缶のよさとか、どのように作っているのかを丁寧に解説して発信したら、そこからオーダーをいただくことが増えてきたんです。それでいまは、コーヒーや紅茶、お菓子など食品メーカーさんはもちろん、雑貨屋さんなどからも声がかかります。
ロズリン:うちとのご縁も、社員がInstagramで見つけてきて、缶の製作をお願いしたんです。
株式会社加藤製作所公式Instagram https://www.instagram.com/kato_seisakusho
加藤:弊社がほかと違うのは、OEM(他社ブランドの製品を製造すること)で缶を製作していること。まずコンサルティングから始め、「この商品ならこんな色、こんな形が合うかもしれませんね」などとお客さんと相談しながら、オリジナルを作り上げていきます。
ロズリン:大きさも形も色も中身に合わせてくれるんですね。
加藤:オーダーを受けたら、その会社のホームページやSNS、パンフレットなどをじっくり見るようにしています。そうすると会社の雰囲気とかオーナーさんの思いなどがわかるので、「このお店に置くとしたらこのような色合いがいかがでしょう」などと提案できるんです。
ロズリン:こうしてホームページを拝見していると、あらためて色づかいがすてきですよね。
加藤:実は色にはこだわりがあって、キッチンやお部屋のインテリアに馴染むようにちょっとくすんだくすみカラーを取り入れています。センスを磨くために、美術館にはよく足を運びます。
後編へ続きます。
【加藤 里絵(かとう・りえ)さんプロフィール】
株式会社加藤製作所/副社長
大分県生まれ。大学卒業後、ソニー株式会社に就職。国内にてカメラ営業として従事したのち、希望が通り海外マーケティング部に異動。2014年まで中国全土のプロモーションを担当。
2015年より、明治28年創業の120年以上続く老舗茶筒メーカー「株式会社加藤製作所」入社。2023年より副社長を務める。
株式会社加藤製作所公式サイト http://kato-seisakusho.net
株式会社加藤製作所公式Instagram https://www.instagram.com/kato_seisakusho
]]>あっという間に2023年も最後の月を迎えようとしています。
今年は皆さん、どんなクリスマスを迎えるのでしょうか。
ちょっとお知らせですが、私たちサンギのスキンケアブランド、ハップアールから嬉しいニュースがあります。
昨年秋に発売した、“超つぶつぶ” な使い心地が特徴のフェイススクラブが、女性誌「anan」の2023年秋モテコスメ大賞新定番部門 “頬ずりしたくなるほどふわもち素肌に導く賞” を受賞することができました!
これもひとえに、愛用してくださっている皆さんのおかげです。
受賞ロゴが目を惹くドアステッカーが、日比谷線の一部の車両に貼られました。
このフェイススクラブを含むサンギの全化粧品には、「アパリン」という特殊な成分を配合しています。
その成分はうるおいに必要な皮脂は残しながら洗い上げることが特徴です。
サンギのコア技術であるハイドロキシアパタイトをスキンケア用にまるい粒に仕上げたもので、洗浄補助成分のひとつです。
毎回、感動するほどつるつるな素肌に洗い上げてくれますので、乾燥が気になる冬でもツッパリ感がなく、とても心地よい洗い上がりになります。
私は年中、毎朝、ハップアールのフェイススクラブで洗顔してから仕事をスタート。
気分のリフレッシュにも、とてもお勧めです。
そんなフェイススクラブで、今、キャンペーンを行っています。
まずは、12月26日まで、サンギショップでフェイススクラブが送料無料でご購入できます。
そして、すてきなプレゼントをもらうことができます!
ハップアールの「リッチクレンジングクリーム120g & フェイススクラブ100gセット」または「フェイスウォッシュ120g & フェイススクラブ100gセット」をお買い上げいただくと、温泉旅行やスパ、サウナにピッタリなスパバッグがついてくるんです。
ハップアールから皆さんへ、ささやかではありますが、クリスマスプレゼントを差し上げます。
くわしくはハップアールのWEBサイトで確認できます。
スパバッグは数に限りがありますので、早めにチェックしてみてくださいね。
>> ハップアールからのクリスマスプレゼントキャンペーンをチェック
なお、ブログを最後までお読みくださった方に、とっておきの情報です。
「リッチクレンジングクリーム120g & フェイススクラブ100gセット」とスパバッグをセットにして、3名様にプレゼントします!
ロズリンの部屋の読者さん限定枠です(笑)。
濃密クリームでメイクをオフし、新感覚のスクラブで古くなった角質をオフしたら、ずっと触れていたくなるような透明感のあるつるつる肌が目指せますよ。
年末にむけて、ますます忙しいシーズンになりますが、お体を大切にお過ごしくださいね。
■ロズリンの部屋プレゼント
2023年11月28日(火)まで
ハップアールのスパバッグセットを3名様 にプレゼント。
ご当選者の発表は商品の発送をもって代えさせていただきます。
プレゼント応募は終了しました。たくさんのご応募ありがとうございました!
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〜ママの笑顔で、最高のおやつタイムを〜
株式会社やまやま 代表取締役社長 猪原有紀子さん
気鋭の起業家、猪原有紀子さんプロデュースの「無添加こどもグミぃ〜。」誕生秘話と、これからのソーシャルビジネスの可能性についてのお話の、今回は後編です。
●腸内環境改善のカギは乾燥技術にあり
ロズリン:(「無添加こどもグミぃ〜。」を試食後)なるほど味が濃くて甘いし、美味しいです!
猪原:子どもが自分からパクパク食べてくれるので、ママもストレスフリーでいられます。
特に子どもは5歳までに腸内環境のバランスが決まり、それが生涯変わらないとも言われますから、与えるものには慎重になるべきです。
ロズリン:どういった流れで製品化されているのですか。
猪原:和歌山の小規模農家から買い取ったよそでは売れないフルーツを、地元の障害者施設に持ち込み、ここでカットして並べて乾燥機に入れ、48時間乾燥させたら完成です。ドライフルーツなので大きさは10分の1に縮みますが、きれいな色はそのままに、栄養分がギュッと凝縮されています。
ロズリン:まさにその通りの食感です。
猪原:フルーツの食物繊維や乳酸菌が腸内細菌のバランスを整えて活性化するので、年齢問わずすべての人にいいことづくめ。食物繊維は乾燥させたほうが、より吸収が良くなるんですよ。
大人の方なら、ワインと一緒につまむのもおススメです。
ロズリン:歯の健康が守られるところも素晴らしいですね。
猪原:砂糖がなくて、噛むことで唾液がたくさん出るので、虫歯リスクも減らせますよね。
ロズリン:こうなると、無添加グミに続く新製品にも期待したくなります。
猪原:第2弾商品として、某製菓学校とのコラボによる桃のアイスクリームを準備中です。学生と一緒に1年かけて完成しました。砂糖や乳成分を一切加えないのに、甘くてとろみもあるアイスクリームです。今夏の発売を予定していますので、どうぞお楽しみに。
ロズリン:それは食べてみたいですね。アイスクリームというアイデアは、どこから?
猪原:おお、良くぞ聞いてくださいました(笑)! うちの三男が夏になると「アイス、アイス」と騒ぐんですが、市販品は量が多すぎて体を冷やすのが心配でした。そこで、大量に廃棄されている桃を原料に、子どもが食べきれる量の無添加アイスクリームを作ろう、と思い立ったんです。
ロズリン:桃もそんなに捨てられているんですか。
猪原:桃は非常にデリケートで、ちょっとしたキズでも廃棄処分されてしまうんですよ。肥料にもならないし、廃棄場所が野生動物に荒らされるといった問題もあります。そんな農家の悩みと、フードロス問題解決の一助になればと思います。
●世界を視野に、サステナブルな展開へ
ロズリン:面白いお話がまだまだありそうですが、今後はどのようなヴィジョンを描いていますか。
猪原:当面、ネット販売を中心に展開する予定ですが、無添加グミのビジネスモデルを世界に広げていけたらと考えています。
廃棄されるフルーツの再利用、雇用の創出、子どものヘルスケアの3要素が揃ったしくみを、私は「ゴールデントライアングル」と呼んでいます。
たとえば、アフリカではマンゴーの大量廃棄が問題になっているので、海外でも発展する可能性は十分あると見ています。実際にタンザニアで同様の取り組みが雇用を生み出し、アメリカ向けの輸出ルートを確立した例がありますから。
ロズリン:障害者施設の協力については、当初から計画にあったのですか。
猪原:初回分がすぐ完売してしまって、あわてたというのが実際のところです。ちょうどコロナ禍にあった時期で、施設への業務委託そのものが激減していたタイミングでもあって引き受けていただけました。まさにトライアングルの最後のピースがはまって完成した、という感じでしょうか。
施設では、フルーツの香りに包まれながら、それぞれが自分のできる範囲で加工作業に参加することができますし、何より子どもに喜ばれるものを作ることで社会から注目されることが誇りになる、と言われるのがうれしいです。
ですが、障害者の雇用環境はまだまだ厳しいので、今後は一人ひとりが誇りを持てる仕事を継続的に提供することが課題でしょう。
ロズリン:まさに三方良し、のビジネス展開ですが、次の一手は?
猪原:今年2月、経産省からの派遣事業で米シリコンバレーを訪ねることができました。自分の構想を話した相手から「それはアメリカでやりなさいよ!」と激励されました。
今年中にはBto Bを視野に、企業のお客さんを作ろうと動いています。福利厚生として企業に提案できるものを作りたいし、卸方面も拡大したいですね。
ロズリン:お土産や特産品などでも、需要は小さくないと思います。
猪原:ただ、大量生産が難しく、販売数を増やすのは簡単ではないので、この点に注力していくことにはなりますね。
ロズリン:あと、ブランディングについての構想はありますか。
猪原:これからは必要ですよね。社名の“やまやま”は、もとは「本当は〜したいけど、できない」という意味ですが、私としてはこれをひっくり返したい。昨年8月の法人化で気持ちを新たに、これからもいっそう認知度アップに努めていくつもりです。
●“おやつストレス”の克服で、みんな笑顔に
ロズリン:この間のビジネスコンテスト受賞後は、メディア取材や講演などの機会も増えて、注目度は増したでしょう。
猪原:取材が増えるのはありがたいんですが、起業してすぐの頃などは人前でしゃべるのが本当に苦手で……。そこで被り物があれば何とかなるかと、Amazonで買った熊のマスクで顔を隠し、「農業女子 くま子」と名乗ってSNS発信を始めたら、講演依頼がきたんですよ(笑)。おかげ様でここ3年の間に、くま子なしでもOKにはなりましたが。
ロズリン:私も人前でのスピーチは苦手ですが、そういう方法は思いつきませんでした。
猪原:こんな私ですが、自分の居なくなった後の社会にもこの理念を残していくにはどうしたら、とか、もっともっと広げるには等々、いろいろと悩みが尽きません。
ロズリン:ところで、可愛らしいパッケージデザインの裏面に、不思議なメッセージがありますが。
猪原:このお菓子を「ギューってしてから渡してね!」と呼びかけているのは、たいていのお母さんたちは子どもにおやつを与えるとき、「歯や体には良くないけど、仕方ない」という“おやつストレス”で怒っているからなんです。本来、おやつタイムは幸せな時間であるべきで、子どももママも笑顔でいてほしい、という願いを込めました。
かつて私自身、長男の寝顔を見ながら「怒っちゃってごめんね」と言って泣いた経験がありますが、そんな人ってたくさんいると思うんです。だから、少しでもストレスを軽減して、親子で楽しいおやつタイムを過ごしてもらえたら、こんなにうれしいことはありません。
〔ロズリン インタビューを終えて〕
快活でチャーミングな猪原さんは、無添加グミのプロデュースの他にも、子連れファミリーが気軽に楽しめる農園の運営など活躍されています。この日は、ご自身の農園で栽培するラズベリーを意識した装いで、そのこだわりぶりにも唸らされました。
夢を持ち続け、粘り強く着実に結果を積み上げていく猪原さんのパワフルな生き方は、つい夢を諦めがちな多くの人の心にも、明るい気づきをもたらすのではないでしょうか。
【猪原 有紀子(いのはら・ゆきこ)さん プロフィール】
株式会社やまやま代表取締役/社会起業家
1986年生まれ。同志社女子大学卒業後、2009年株式会社セプテーニ入社(〜2019年)。2018年和歌山県かつらぎ町に家族で移住後、農業家に転身。無添加グミの開発販売で農家フードロス及び障害者雇用促進に取り組むほか、子連れファミリー向け農園「くつろぎたいのも山々」運営、耕作放棄地問題、移住促進、再生可能エネルギー普及などの社会課題を解決するソーシャルビジネスの創出をテーマとした活動に従事。
株式会社やまやま公式サイト https://nou2c.com
「無添加こどもグミぃ〜。」公式通販サイト https://yama2.shop-pro.jp